本会は、モラエスの顕影、美術展、音楽会を通して相互理解を深めています。

モラエスは1913年 (大正2年7月)神戸総領事の職を辞し、海軍中佐の 軍籍も返上して徳島に隠棲した。

徳島を選んだ理由は、彼の著書 「徳島の盆おどり」の 41章 「徳島を隠棲地とした理由」に詳しいが、結局生者と希望の生活 (出雲今市の 永原デンとの生活)ではなく、死者と追慕の生活 (福本ヨネの故郷徳島での生活)を 選んだのである。

しかし、徳島での彼はつかの間ではあるがコハルという同伴者を得て、 健康も回復し朝タ2回の墓参りをはじめ徳島市内はもちろん、石井、池田まで足を のばし鳴門観潮や小松島まで見聞を広げ、意欲的に創作活動も行っている。

コハルの死後も名著「おヨネとコハル」所載の各編や 「日本におけるメンデスピント」 「日本史瞥見」「日本夜話」「日本精神」など彼の著作の多くは徳島17年間の 所産である。

このような活動の―方で、モラエスは徳島での公的な関係や 知識人との接触はほとんどなく、市井の中に埋没し、本の出版も全て ポルトガル本国で行われたので地元徳島でも彼の業績を知る人はほとんど 皆無の状態であった。

彼の業績が地元に知られるようになったのは、 彼の死後6年、1935年7月1日第7回忌の法要が時の徳島県学務部長 湯本二郎氏 (長野県湯田中温泉出身)の提唱により外務省、文部省などの中央官庁を巻き込んで 大々的に実施されてからのことであった。