モラエス
モラエスは1913年 (大正2年7月)神戸総領事の職を辞し、海軍中佐の 軍籍も返上して徳島に隠棲した。

徳島を選んだ理由は、彼の著書 「徳島の盆おどり」の 41章 「徳島を隠棲地とした理由」に詳しいが、結局生者と希望の生活 (出雲今市の 永原デンとの生活)ではなく、死者と追慕の生活 (福本ヨネの故郷徳島での生活)を 選んだのである。
しかし、徳島での彼はつかの間ではあるがコハルという同伴者を得て、 健康も回復し朝タ2回の墓参りをはじめ徳島市内はもちろん、石井、池田まで足を のばし鳴門観潮や小松島まで見聞を広げ、意欲的に創作活動も行っている。

コハルの死後も名著「おヨネとコハル」所載の各編や 「日本におけるメンデスピント」 「日本史瞥見」「日本夜話」「日本精神」など彼の著作の多くは徳島17年間の 所産である。

おヨネ

コハル
このような活動の―方で、モラエスは徳島での公的な関係や 知識人との接触はほとんどなく、市井の中に埋没し、本の出版も全て ポルトガル本国で行われたので地元徳島でも彼の業績を知る人はほとんど 皆無の状態であった。

彼の業績が地元に知られるようになったのは、 彼の死後6年、1935年7月1日第7回忌の法要が時の徳島県学務部長 湯本二郎氏 (長野県湯田中温泉出身)の提唱により外務省、文部省などの中央官庁を巻き込んで 大々的に実施されてからのことであった。
年月日 年      譜
1854年5月30日 
(安政元年) 
 ポルトガルの首都リスボン市で誕生 父 ヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエス 母 マリア・アマリア・デ・フィゲイレイド 3人兄弟の2番目(姉、妹)
1873年
(明治6) 
 海軍兵学校に進学
1875年   海軍兵学校を卒業、海軍少尉に任官
1880年  海軍中尉に昇進 
1886年   海軍大尉に昇進
1888年7月   ポルトガルの植民地マカオに赴任
 1889年8月4日
(明治22)
 初来日(長崎に入港)
1891年10月   マカオ港務副司令、海軍少佐に昇進
 1893年6月15日  第2回目訪日 横浜着
1894年7月2日   第3回目訪日
 1895年7月6日  休暇で来日(第4回目)
 1896年7月29日  船舶用兵器購入のため来日(第5回目)
 1897年
(明治30)
 日本残留を決意
1898年   神戸大阪領事館臨時運営を命じられる、日本に移住
1899年   神戸・大阪ポルトガル領事として着任
 1900年11月 
(明治33)
 福本ヨネと神戸、生田神社にて神前結婚式を挙げる
 1901年  初夏 琴平を経由して徳島に里帰り
 1909年  徳島に里帰り
1912年8月20日
(明治45 大正元年)
 ヨネ 死去 享年38歳
 1912年9月  神戸・大阪総領事に任命される
 1913年4月  徳島へ、おヨネの墓参り
 1913年7月1日  公職を返上し、徳島に移り住む 
 1916年  10月2日
(大正5)
 コハル死去 享年23歳
 1929年7月1日
(昭和4)
 伊賀町にて死去 享年75歳 
 7月2日  名東郡八万村中津山 竹林火葬場で荼毘に付す
 7月3日  コハルの実家、斉藤家の菩提寺である安住寺で葬儀
 7月9日  遺言によりヨネ・コハルを祀る仏壇を慈雲庵の智賢尼に託す

モラエスの著作

 モラエスは、まず故国の雑誌や新聞に発表し、次に何編かの文章を一冊にまとめて出版する方法を採った。従って
作品の発表時期と発刊時期とが異なる場合が多い。

 極東遊記  1895年(明治28)  リスボンにて出版
 大日本  1897年(明治30)  リスボン
 日本通信 第1集  1904年(明治37)  
 茶の湯  1905年(明治38)  日本で出版された唯一の本
 日本通信 第2集    
 シナ・日本風物誌  1906年(明治39)  リスボン
 日本通信 第3集  1907年(明治40)  
 徳島の盆踊り  1916年(大正5)  
 日本におけるフェルナン・メンデス・ピント  1920年(大正9)  
 おヨネとコハル  1923年(大正12)  
 日本歴史  1924年(大正13)  
 日本夜話  1926年(大正15)  リスボン
 日本精神    リスボン
 日本通信 第4集  1928年(昭和3)  リスボン




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